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zoom RSS 葺合新川の様子と新川遊郭

<<   作成日時 : 2017/06/29 12:04   >>

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『賀川豊彦と現代』鳥飼慶陽著に明治40年代の葺合新川の様子の記述を発見。
p.43に『葺合新川の実態』とある。
それによると
葺合新川の形成は「人足屯所百人部屋」と新生田川川尻に移転された「屠牛場」ができた明治十年代後半としている。
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またスラム街と言われた理由として賀川記念館蔵書の本(書名失念)に下記のように記述されている。

『このあづまの町が被差別部落だと差別されたり、スラム街と言われてきましたことについていくつかの話をします。
一番目として考えられるのは屠場がこの土地に移転してきたことがあげられると思います。
二番目が神戸水平社が専称寺で創立したことが考えられます。
三番目にこの地域の生活環境が考えられます。
四番としてはマッチ工場の建設が理由として考えられます。
他にも筒井村(被差別部落)からの転入もあったようですが、証明するものがありません』


屠殺場がひとつのキーワードのような気がします。

大正8年の本で簡易食と安価食 木原香雪著には
『大阪のよりもヨリ一層ヒドイといったらモー何のいうこともあるまい』という書かれよう。
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また調べてみると驚きましたが、
歌人与謝野晶子が葺合新川を訪れています。

大正10年 人間礼拝 与謝野晶子著によると
貧民窟の光景を記述するのは不可能と書かれています。
不潔と病気、貧困のなか豚や犬と同じ生き方をしている人間があると書かれています。
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それと新川を調べているうちに遊郭があったという記事を散見しました。
それでこんなところにそんな場所があったのか?どこにあったのか?と
調べてみると、新川遊郭はこの葺合の地ではなく、
兵庫の新川(兵庫区今出在家町)であったというのがわかった。
明治30年 神戸みやげ 岡太郎吉編
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昭和5年 全国遊廓案内 日本遊覧社発行
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ただ私娼で東雲通りの高架下などでは立ちんぼで集客していたようですが。


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
初めまして。
昨夜、89歳の祖母の話を聞いて葺合地区のことを調べているうちにこのサイトに辿り着きました。
祖母の家は材木屋をしていたそうです。
材木を扱うということは生田川のほとりにあったのでしょうか。
何か情報をご存じないでしょうか。
なり
2017/07/02 00:16
なりさん こんばんは。ブログ主です。
ブログを見て頂き光栄です。ありがとうございます。
おばあさん89歳だと昭和3年(1928)生まれですね。お元気でなによりです。
材木屋ということですが、残念ながら詳しくはわかりません。
その材木屋が生田川のほとりにあったのかどうか私にはわかりませんが、もしご興味がおありでしたら、
神戸市立中央図書館の2Fに行けば昔の詳細地図を閲覧することができます。
葺合区の詳細住宅地図で一番古いのが昭和31年『神戸市全産業住宅案内図帳:葺合区』です。
もしその材木屋の屋号がわかっていて昭和31年当時残っているのであれば場所を調べられると思います。
ブログ主
2017/07/06 21:01

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